体験者の視点 観察者の視点
こんにちは。
こころの健康支援室 そらいろのmirineです。
11月も最終日ですが、今週はあたたかくて12月も目前というのが不思議な心地です。
今年の寒暖差は本当に厳しく、小春日和と真冬の寒さを2日で行き来する気温差に、身体がどう適応していいのか戸惑っているような気がします。
師走は何かと気忙しくなる時節でもありますので、くれぐれもご無理のないようにお過ごしください。
人は、自分のことをどれだけ把握しているでしょうか。
もちろん、人によっても状況によっても、把握できる範囲は変わってくるでしょう。
「自分のこと」というのはまさに自分が体験者なので、感じたことも考えたことも当たり前によく知っていると思ってしまいます。
しかし、実際には、一日のうちで微細に変化し続ける自分の感覚も、感情も、思考も、状態も、その大部分は無意識の記憶の中に埋もれていき、思い出せるのはハイライトとなる出来事と、それにまつわる印象的な感覚や感情、思考の断片くらいなのではないでしょうか。
「体験」とは、膨大な感覚や感情、思考、外部からの情報が集まってできているため、特別に取り上げるようなことがなければ、ひとかたまりの「体験」として認識されてしまいます。
そのため、体験しているからといって、体験の一部である自分の感じたことや考えたことの一つひとつを把握できているとは限らないのです。
時々刻々と積み重なっていく体験の中から、変わり続ける自分の心身の状態をとらえようとすると、体験者の視点だけではつかまえ続けることができません。
普段私たちが自分について意識を向ける時は、たいてい自分事の視点から捉えています。
一方で、人はたとえ自分のことであっても、第三者的な視点からも捉えることができます。
自分事の視点とは体験者の視点であり、第三者的な視点とは観察者の視点とも言えます。
たとえば、「お腹すいたな」は体験者視点の思考ですが、「私は「お腹がすいたな」と思っているな」は観察者の視点の思考と言えます。
「イライラする」は体験者の視点から捉えた感情の動きで、「私はイライラしていると感じているな」は観察者の視点から感情を捉えています。
「腰が痛い」は体験者の視点からの状態把握で、「私は腰が痛いと感じているな」は観察者の視点での状態把握になります。
「お腹すいたな」も、「イライラする」も、「腰が痛い」も、体験が変化したら、つまりお腹が満たされたり、イライラした状態を脱したり、腰痛がなくなったり、それらより興味を引く出来事が出てくれば、その時そう思ったり感じたこと自体、特別記憶に残らないのではないでしょうか。
日常の中で自分の感情や思考が動いた時に、「私は今〇〇と感じているな」「私は今〇〇と思っているな」と、観察者の視点から捉えるようになると、その時々の自分の状態をつかまえることができるようになります。
日常の中で折々に自分の感じているもの、考えていることを客観視して捉えることで、そのままでは日々の体験の海の中に埋もれてしまう自分自身の変化に気づきやすくなるのです。
もしかしたら、「私は今〇〇と感じているな」「私は今〇〇と思っているな」と思うようになると、自分自身の感じているものや考えていることに、今まではこんなに無頓着だったのかと感じられるタイミングがあるかもしれません。
あらためて観察者の視点で自分の体験を表してみると、「あ、そうだったのか。自分は今そう感じて/思っているのか」という、新鮮な気づきに感じられることがあるのです。
体験者としてのご自身を観察する視点が、自分自身のことだけに限られない、新しい発見にもつながるかもしれないですね。
かしこ
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