無知の知
こんにちは。
こころの健康支援室 そらいろのmirineです。
5月もあと1週間をきり、ゴールデンウィークが終わったと思ったらあっという間に5月も終わり、といった心地です。
東京では、気温が上がってもまだ梅雨前のさわやかな暑さで済んでいますが、6月ともなるとやはり梅雨入りが射程に入ってきます。
梅雨から夏は気象の変化が大きい変わり目の時季です。
どうぞご無理のないようにお過ごしください。
あなたは、自分のことをどれくらい知っていると思いますか?
「無知の知」とは、古代ギリシャの哲学者、ソクラテスの言葉です。
この言葉は、「自分が無知であるということを知っていること」や、「自分に知識がないことに気づいた者は、それに気づかない者よりも賢い」等と解説されることが多いようです。
実際にこの言葉についてソクラテスが意図したところは、究極的にはご本人にしか分からないかもしれません。
私個人としては、「無知の知」とは、人間の傲慢になりやすいところ、というと言葉が強すぎるようであれば、慢心しやすいところを的確についた言葉のように感じられます。
つまり、人は自分が「知っている」と感じている物事について、あらためて知ろうとはあまりしないですが、「知らない」と思う物事については機会があれば知ろうとするものだと思うのです。
何事においても、一人の人間が一つの対象について「余すところなく知る」ことは、おそらく(相当な努力・尽力をしても)実際にはとても難しいことだと思います。
それでも、人はだいたいのところを把握したと感じると、「分かった」「理解した」「知っている」と思うのではないでしょうか。
そして、すでに「分かった」「理解した」「知っている」物事は、その時点では「それ以上知る必要のないもの」となります。
「自分は卵のことはよく知っている」と思っている人よりも、「自分は卵のことはほとんど知らない」と思っている人の方が、卵についての知をより深めることができるのではないでしょうか。
「自分自身」や「身近な人」というのは、最も「知っている」と感じられやすい対象かもしれません。
言うまでもなく、生まれてから今に至るまで「自分自身」とは不可分ですし、身近な人たちとも時間をともにし、いろんな体験を共有してきています。
よく「知って」いて当然の対象です。
しかし、「知っている」と思っているから知らないこと、「知っている」と油断して気づかずにいること、「知っている」と思いこんで決めつけていることが、もしかしたらあるかもしれません。
すでによく「知っている」から、「知ろうとしていない」かもしれないのです。
知らないから、知りたいと思う。
分からないから、分かりたいと思う。
「知りたい」という気持ちは、自分にはまだ知らないことがある、つまり自分の無知を知るところからはじまります。
自分が「よく知っている」と思っている物事について、実際にはどれだけ「知って」いるのでしょうか?「分かって」いるのでしょうか?
あなたは、自分のことをどれくらい知っていると思いますか?
かしこ
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